沖縄県公文書館
タ イ ト ル: 沖縄戦記録座談会 中城村南上原 1 A面
資 料 解 説: 収録時間:45分49秒
開始時間 00:19:57 ~ 終了時間 00:30:23
シ リ ー ズ: 沖縄戦関係証言記録
件   名: 中城村南上原 03
摘   要: 証言者:防衛隊(27歳) / 女子学徒隊(ひめゆり学徒隊) / 遺骨収集 / 球部隊 / 石部隊 / 病院壕 / 重症患者殺害
備   考:
資料コード: 0000087778
【音声文字起こし】
証言者1:そうしたらわし、そこへ行って、そこには第1病棟の医院長が元嘉手納のお医者さんなさっていた比嘉中尉だったですね。軍医中尉。その人もお知り合いになったし、平良は今の**ですね。その博士も、そこでお知り合いになったんです。
 そのお知り合いも軍医はうちで治療するんですよ。そこで沖縄の今のひめゆり部隊ですね。あの連中は本当は看護婦ではなく、看護婦要員ですよ。まあ講習は受けてないでしょ、治療はしない。どっちか言えばわしが見たら、こんなにしても沖縄の人**侮辱するかと思うくらいだった。だから軍隊は階級がものをいうんですよ。わしの状態では何ともできないんですよ。どっちか言えば、「おーい」、患者は「おーい、尿器持ってこい」「便器持ってこい」ですよ。「貴様ら沖縄の看護婦か」と言われて、非常に今のひめゆり部隊、非常に軽蔑されておったです。もう何も外科の治療の**も持たんでしょ。尿器ですね、と便器。これですよ、患者の。そんなに使われて**ですよ、1日に飯のこれくらいだから、5勺ぐらいでしょ。それの2食2人、野菜ひとつも入らん。
 だから、うちの患者はこうだからというので、わし夜、カマス(藁ムシロを2つ折りにして縫い合わせた袋)持っていってですね、同じ沖縄だから、これはもうやがてなくなるんだから、敵はそこまで来てるから、「これ頂戴します。誰もおらんから頂戴します」と言って、みんな持ってきて、自分の部隊の患者に1つずつくれたんですよ。

Q:球菜(キャベツ)ですか?

証言者1:球菜です。それから精糖工場があったんです、津嘉山の部落に。ここはですね、樽詰めで、樽を合わせて45あったんです。その時わしも**帰ってきて力があった**、それで1つ引っ担いできてですね、玄関に置いたわけですよ。「おい、わしの部隊みんな、ここに集まって来い」。それで2斤くらいずつ、みんなにくれとったわけですよ。ただ、もともと自分、沖縄人のうちの部隊の患者にくれてもいいが、大きな気持ちを持てば、みんな兵隊は同じ兵隊だから。おーい、みんなわしも欲しいとか言わんばかりに。何も水もないし、食い物もないでしょ。だから1斤くらい分けてくれたら、先生が(00:22:21~00:22:45 聴取不能)
 そうしたら、ああそうか、それじゃあすまないが、まあ将校は何を食べてかわしらには分からない。「あなたは欲しいですか」と言ったら、「うん、欲しいよ」「それじゃあ、あげなさい」と言って。帯剣でわし割ってみんなに1つあげたわけですよ。これ***焼けたらなくなるからって。また明くる日担いできて、もうこれだけは置いておこう、あんた方、みんなに分けてやるから。それを毎日、球菜と、サーターグヮ(黒糖)、わしが持ってきたサーターグヮと。水はないから。水はないから、わしがキビ1つ担ぐくらい、折ってきてですよ。帯剣持っていって切ってきて、「おいみんな食べなさい」と言って、半分か3分の1ぐらいにして、命、生き伸ばさせたわけです。そこがそうですね、島尻に**したのが、そうです。わしそこに20日ぐらいおったわけですから。

Q:その津嘉山の、

証言者1:津嘉山の第1病棟におったんです。

Q:第1病棟は真ん中の方ですか? それとも左側?

証言者1:真ん中は第2病棟であって、1番津嘉山の部落の突き当たりが第1病棟だったんです。

Q:ああ、あれの。

証言者1:あれいくつもあったんです。第1病棟、第2病棟で。第1病棟の院長が同じ仲座に3年おられたんですが、沖縄出身の現役、行って帰って、先輩だからしてね。比嘉軍医殿が向こうの病棟の院長になっておったわけです。

Q:今、碑が立っていますね。あっちは陸軍病院。

証言者1:いや向こうは......

Q:あれと違うのかな。

証言者1:あれは違いますね。

Q:あれも東になっているが。

証言者1:いや、後ろの東側ですよ。向こうの部落はここから行ったら、中道路通って両方部落でしょ。それから製糖工場が前あったんですけども、もう今はないです。***わしも向こうに遺骨埋めてあったから、人に頼まれて行ったわけですよね。いや、遺骨は戦後取ってきておるんだが、***の終戦後、弁当グヮを持って、***。おじいさんが、お父さんがですよ、病気したら、おれの***言うとったから、わし**行きますと行ったら、影も形もないですね。今、原野茂って、そう、**景色もなくなっている。そこにまた、うちの親戚がいますがね、わしのおばさんの夫ですが、それは石部隊だったんですよ。それでその病棟の立ち退きが、5月じゃなかったですかね、小満芒種だから、新(新暦?)の。
 それでですよ、真栄城アンエイと言いますがね、わしより5、6歳ぐらいの先輩なんですが。その人がやられたわけです。高射機関砲で。だから**入院しとる**と言ってるんだから、親戚だから他部隊、私は球で向こう石部隊だったんです。***。だから、やられたっていう話を聞いたんで行ってみたらもう倒れとったんですよ。そして向こうの患者は、立ち退き命令がこうなんです。日本は本当、悪どいんですよ。「元気な者、歩ける者は出なさいと。また、歩けん者は明日連れに来るから、そこへ残れ」と言って、日本の兵隊は、もちろん沖縄の防衛隊も一緒ですがね。あの、カルモチン、カルモチンですか? 毒薬と言っていましたがね。

Q:あれでしょう、何て言うんですか。

Q:青酸カリ。

証言者1:ああ、青酸カリ。あれをですね、「朝、連れてくるんだから、あんた方今日うんと食べてわしが来るまでには明日まで待っておきな。これは今食べて、明日連れに来るまでは明日食べなさい」と言う。もう2個ぐらい握ってあるんですね。***ですよ、患者は、もう歩けんのは、それ食ってもうそのままです。

Q:握り飯に?

証言者1:はい、握り飯に青酸カリ入れて。うん、あの壕だったら、そういうことがあるんだと思っていましたね。

Q:**毒殺で。

証言者1:ああ、毒殺ですよ。それで、わしらのそういうのを看護婦が聞いておったんですよ。「あんた、部隊のほとんど部隊の連中、全部表に出さんと、大変ですよ。こういうのがある」って言うんで。その部隊の、その時は看護婦ですよ。比嘉さんというので、与那原の人と言っていましたかね。今、中部病院の、7、8年前火事(?)があった外科、婦長でなく、***しています。今は上がって婦長になったかもしれんが。その時20歳ぐらいだったから、まあ44、5くらいでしょう。今は元気です。その人は看護婦だったんです。
 それから中城安谷屋ですね。安谷屋でペルー帰りと言ってましたが、わしの親父もよく知っていましたが、そこのお母さんも、(娘たちの?)1人は女学生だったんですが、姉さんがそこは看護婦だったけれども、ここは5月の1日に下から上ってきて、北中城でやられてるでしょ。追われて向こうに帰っておるが、入り口の片隅に、看護をしているが、厄介者みたいな扱いされておって。
 わしもみんなの食糧探しですからね。もうわしは前に座っておったんです。畳もその辺も、その辺り立ち退き前だったら...あ、もっとおったなぁ。それから、わし、夜は野菜を盗んだりするが。そこで部落民から聞いたら、馬ですよ、馬。もう、持って**から、殺すという話を聞いたんですよ。そうすると、何かガヤガヤする。夜ランプつけてガヤガヤするからって行ってみたら、あの、まあ、馬殺しとったんですよ。
 兵隊だから、怖がって1人で、いや、すみませんが私も***、少しくらい分けてくれませんか、ああそうですかっていうので5斤もらったわけです、買って。その時、50銭ぐらいだったですね。すみませんが、これと、あなた味噌あるでしょうって言って、味噌もあると。どこの家庭でも1年分作るでしょう。それで分けてもらって、それで油味噌作らせてもらったわけですよ、そこで鍋借りて。同じ沖縄人だからですよ。金も出しておるし味噌代も出して。
 それからまた自分の患者に、ああ、平良さんもあげたんですよ。平良さんも、士族(?)の方だから、こちらのトウマミ(?)、この***。***になる。これは、たんぱく質で**牛肉**、馬肉とれんかったですよ。***するとだいたい1斤くらい。自分の患者にはこれくらいの、**を少し盛るぐらいですね。みんなに分けてくれて。それは今食べていかないと、***だろう。今までわしはみんなに自分の金を出して、わしは作って、それをこうして。

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